JUSTER MEDIA ARTICLE

2026年10月19日 · 約5分

メキシコ、害虫退治のために「ハエ工場」を造った理由

害虫を減らすため、週1億匹のハエ生産を目指すメキシコの工場。だが町では悪臭による抗議が再燃。科学的な防疫策が地域と衝突する理由を追う。

0:000:00
Macro shot of a fly resting on a textured wooden surface indoors.

害虫を減らすため、週1億匹のハエ生産を目指すメキシコの工場。だが町では悪臭による抗議が再燃。科学的な防疫策が地域と衝突する理由を追う。

町にできた、少し奇妙な工場

メキシコ南部、グアテマラとの国境に近いチアパス州メタパ・デ・ドミンゲス。2026年6月、この町に新しい「ハエ工場」ができた。目標は、週に最大1億匹ものハエを生産すること。しかも目的は、ハエを増やすことではなく、危険な害虫を減らすことだ。

ところが10月15日、住民が工場の移転を求めて抗議した。理由はハエが大量に飛び回るから、ではない。町に漂う、腐った肉のような強い臭いだった。住民は吐き気や学校生活への影響を訴えている。人と家畜を守るはずの施設が、なぜ隣人の暮らしを揺さぶっているのだろう。

敵はハエそのものではなく、傷口に入る幼虫

対策の相手は「新世界ラセンウジバエ」(New World screwworm)。成虫はハエだが、恐ろしいのは幼虫のほうだ。雌が牛や馬などの傷口に卵を産みつけ、孵化した幼虫が生きた組織を食べる。人にも寄生することがあり、放置すれば深刻な被害につながる。

この害虫はかつて米国などで根絶されたが、2023年以降、中米からメキシコ、さらに米国へと再び広がった。家畜の健康だけでなく、牛の移動や国境を越える取引にも影響する。メキシコと米国が共同で対策するのは、畜産業と公衆衛生の双方に関わる問題だからだ。

ハエを増やすと、なぜ害虫が減るのか

仕組みは意外に単純だ。工場で害虫と同じ種類のハエを大量に育て、放射線で繁殖できない状態にする。その雄を野外へ放すと、野生の雌と交尾しても次の世代が生まれない。新世界ラセンウジバエの雌は通常、生涯に一度しか交尾しないため、この方法が効く。

「不妊虫放飼法」と呼ばれる技術で、遺伝子組み換えのハエを放つ方法とは異なる。米国や中米で過去に成果を上げた実績もある。メタパ工場は6月末に稼働を始め、10月6日時点の米農務省の説明では、週1億匹という最大能力に向けて生産を増やしている途中だった。1億匹は当時の実績ではなく、目標値だ。

ただし、野生のハエが多すぎる場所に少数を放しても効果は限られる。メキシコ農業省は、野生のハエ1匹に対して不妊の雄を少なくとも10匹確保することが重要だと説明している。大量生産という数字には、こうした生物学上の理由がある。

第二の驚き:幼虫の「餌」が町を苦しめた

では、工場の臭いはどこから来るのか。幼虫を何百万匹も育てるには、傷口の栄養環境に似せた餌が要る。ロイター通信によれば、卵、牛乳、粉末ヘモグロビンなどを混ぜた餌が使われている。メキシコの家畜衛生当局SENASICAも9月、卵、牛乳、セルロースなどを含む幼虫用の餌に由来する臭いだと説明した。

当局はこの臭いについて、毒性の危険はないとの見解を示している。一方、住民は鼻や口に残るような悪臭、吐き気、授業への支障を訴える。臭いが有害物質によるものかどうかと、暮らしに支障が出ているかどうかは別の問いだ。現時点で、住民の健康被害の程度を独立に検証した資料までは確認できない。

9月に解決を約束。それでも10月に再び抗議

この対立は、10月に突然始まったわけではない。9月には住民が工場の出入口を数日間封鎖した。現地紙ラ・ホルナダによると、隣接する二つの学校で授業が止まり、500人以上の児童・生徒に影響した。工場からのハエの輸送も妨げられかねない状況だった。

9月11日、当局と住民は協議し、工場の再稼働で合意した。SENASICAは約3か月以内、つまり12月ごろまでに臭いを感じない水準へ下げるための技術対策を約束した。ところが10月15日、住民は再び移転を求めて街頭に出た。期限はまだ来ていないが、約束があることと、毎日の臭いがすでに解消されたことは同じではない。

9月の協議では、住民と行政の代表が対策の進み具合を確認する仕組みも設けると報じられた。単に工場の門を開けるだけでなく、対策が進んでいるかを地域が確かめられることが、合意の重要な部分だった。

工場を止めると、害虫対策も弱くなる

ここから、もう一つの難しさが見える。不妊虫放飼法は、ハエを一度放せば終わりではない。野生の害虫が繁殖する間、十分な数の不妊のハエを繰り返し届ける必要がある。米農務省は、パナマの工場から週約1億匹を供給し、メキシコの新工場でも同規模を目指している。

だから工場の出入口が封鎖されると、害虫の拡大を防ぐための供給網にも影響するおそれがある。現地報道は9月の封鎖で輸送が脅かされたと伝えた。ただし、実際にどれだけのハエが不足し、その結果どれだけ害虫が増えたかを示すデータは確認できない。住民の抗議も、防疫の必要性も、どちらも現実の問題なのだ。

利益を受ける場所と、負担する場所が違う

工場の目的は、メキシコだけでなく米国を含む広い地域の家畜と人を守ること。米国は改修費の一部として2,100万ドルを拠出し、施設全体の計画投資額は5,100万ドルとされた。被害を抑えられれば、農家や流通業者、消費者まで広く利益を受ける可能性がある。

しかし、工場のすぐ隣で暮らす人が受け取るのは、まず臭いという日常の負担だ。地域に仕事が生まれることもあるだろう。それでも「国全体に必要な施設だから我慢してほしい」と言うだけでは、費用と利益の配分は説明できない。悪臭を測ること、対策の進捗を公表すること、住民が意思決定に関わることが、科学技術を社会に根づかせる条件になる。

こうした問題は、発電所やごみ処理施設などでも起きる。広い地域の人が利益を受ける施設ほど、立地する町に負担が集中しやすい。技術の必要性を説明するだけでなく、負担を小さくする設計と監視が問われる。

害虫を減らすだけでは、成功と言い切れない

この話を「住民が科学を理解していない」と片づけるのは簡単だ。逆に「臭いがするから工場は不要だ」と決めつけるのも簡単だ。しかし、害虫が広がれば家畜や人の健康が脅かされ、工場が生活を圧迫すれば住民の協力を得にくくなる。どちらかを無視しても、問題は解けない。

今後見るべきなのは、12月に向けた臭気対策が実際に効くのか、住民との協議が続くのか、そして必要な不妊のハエを安定して供給できるのかという三つの点だ。メキシコの「ハエ工場」が投げかける問いは、技術が正しいかどうかだけではない。その技術のために負担を引き受ける人を、誰がどう守るのか、ということだ。

臭いが改善したかは、行政の発表だけでなく、学校が通常どおり開けるか、住民が窓を開けて暮らせるかといった生活の変化でも確かめられる。数字に表れにくい負担を見えるようにすることが、次の対立を防ぐ第一歩になる。

一覧を見る