アルメニア、自然のDNAを使う企業の基金に集まったのは7,085ドル
生き物を持ち帰らなくても、DNAの情報で研究や製品開発ができる。自然への利益還元を目指す基金が、なぜほとんど空のままなのか。

アルメニアの会議で注目された、小さすぎる数字
2026年10月、アルメニアの首都エレバンで、世界各国の代表が自然を守るための国連会議「COP17」に集まっている。議題の一つは、製薬やバイオテクノロジーの企業が、自然から得た遺伝情報の利用によって生まれる利益を、どう自然保護へ還元するかという問題だ。
そこで注目された数字が「7,085ドル」。2025年に始まった国際基金に、10月19日時点で実際に払い込まれていた金額である。基金は当初、年間およそ10億ドルを集められる可能性を掲げていた。両者の差は、単に募金が集まらなかったという話ではない。私たちが日々使う薬や技術と、遠くの森を守る人たちの間にある、見えにくい関係を映している。
基金の名称は、制度が合意されたコロンビアの都市「カリ」に由来する。会議の開催地アルメニアが基金を単独で運営しているわけではない。国境を越えた利益の分け方を、世界各国が協議している。
生き物を持ち帰らなくても、遺伝情報は使える
例えば、ある国の森で見つかった微生物を研究者が調べ、DNAの配列をデータベースに登録したとする。別の国の研究室は、その微生物そのものを手に入れなくても、公開された配列を読んで研究できる。遺伝情報をもとに新しい医薬品の候補を探したり、農作物の改良を進めたりする可能性がある。
こうしたデジタル化された遺伝情報は、国際交渉で「DSI(デジタル配列情報)」と呼ばれる。対象には植物や動物、微生物などのDNA・RNAの情報が含まれる。研究者が国境を越えてデータを共有できることは、科学の大きな強みだ。重要なのは、すべての薬がこの情報から作られるわけではなく、公開情報の利用と特定商品の利益を一対一で結びつけることも難しいという点である。
例えば、一つの配列が複数の研究で使われ、さらに別の研究成果と組み合わされることもある。データの価値は、発見された瞬間だけでなく、その後の共同研究の中でも生まれる。
データになった瞬間、「誰に返すか」が難しくなる
かつては、ある国から生物の試料を持ち出して研究する際、許可や利益配分を取り決める仕組みが中心だった。生物多様性条約の下にある「名古屋議定書」も、遺伝資源へのアクセスと利益配分のルールを定めている。
ところが、配列情報が一度公開されると、世界中の研究者や企業が何度も利用できる。どの国の、どの生物の、どの部分が最終的な製品の価値につながったのか。利用のたびに追跡して契約するのは現実的ではない。情報を自由に流通させるほど研究は進む一方、元の自然や地域社会に利益を返す道筋が見えにくくなる。ここに、デジタル時代ならではの難しさがある。
研究成果が広く共有されること自体は、世界の人々に利益をもたらす。しかし、その利益を生み出す土台である生物多様性が失われれば、未来の研究の可能性も減ってしまう。
そこで生まれた「自然に利益を返す基金」
この問題に対応するため、2024年にコロンビアのカリで開かれたCOP16で、多国間の利益配分の仕組みが決まり、2025年2月に「カリ基金」が始動した。個々の遺伝情報の使用料を細かく計算する代わりに、遺伝情報を商業利用する一定規模以上の企業に、利益の1%または売上高の0.1%を拠出の目安として示す仕組みだ。
対象として想定されるのは製薬、化粧品、農業バイオテクノロジーなどの分野。小さな研究室や大学に一律に支払いを求める制度ではない。集まったお金の少なくとも半分は、自然を守ってきた先住民や地域コミュニティーが自ら必要と考える取り組みを支えるために使う設計になっている。
基金は、遺伝情報を公開するデータベースそのものを有料化する仕組みではない。研究者が情報を利用しやすい状態を保ちながら、商業的な利益の一部を別の経路で戻そうとしている。
第二の驚き。世界の基金に入ったのは、たった3社から
ところが、基金の開始から約1年8か月がたった2026年10月、実際の入金は3社からの計7,085ドルにとどまっていた。英国の小規模企業2社が1,000ドルと5,000ドル、ベルギーの企業が1,085ドルを拠出した。10月19日時点の「拠出の約束」は計10,656ドルだったが、その全額が振り込まれたわけではない。
当初の年間10億ドルという想定は達成を保証する目標ではなく、潜在的な資金規模を示すものだ。それでも、約束された金額と実際の入金を区別して見ても、現状の規模が非常に小さいことは変わらない。10月22日の報道によると、大手製薬企業からの入金は確認されていない。なぜ、仕組みはできたのにお金が集まらないのだろう。
善意に任せると、先に払う会社が不利になる
最大の理由の一つは、現時点で国際的な拠出が基本的に任意であることだ。ある企業が支払い、競合企業が支払わなければ、支払った側だけが費用を負担する。自然を守ることには賛成でも、「ほかの会社が払わないなら、なぜ自社だけが」という判断が生まれやすい。
一方、製薬業界にも反論がある。すべての医薬品がDSIを使って開発されるわけではないのに、会社全体の売上高や利益を基準に拠出を求めるのは適切なのか。既存の国ごとの制度と二重負担にならないか。公開データへのアクセスを狭めれば、感染症への対応を含む研究が遅れるのではないか。基金を機能させるには、企業の責任だけでなく、公平で予測可能なルールの設計が必要になる。
さらに、企業が支払いを判断するためには、何が対象のデータで、どの活動が拠出の対象になるのかが明確でなければならない。制度への信頼が弱いままでは、善意の企業も参加をためらう可能性がある。
お金が集まっても、次は「誰が決めるか」
もう一つ、見落としやすい問題がある。たとえ基金に多額のお金が入ったとしても、それが本当に自然を守る地域へ届くとは限らない。誰を支援対象とし、何を優先し、誰が使い道を決めるのか。これらは金額と同じくらい重要だ。
カリ基金は、少なくとも半分を先住民や地域コミュニティーの必要に充てるとし、当事者が選んだ組織などを通じた資金提供も想定している。しかし、配分方法や実際の運用には検討中の部分が残る。基金の運営委員会には地域コミュニティーの代表も加わっているが、代表がいることと、各地域の声が十分に反映されることは同じではない。
自然保護といっても、外部の専門家が決めた計画を地域に持ち込むだけでは十分とは限らない。土地に根差した知識や暮らしの優先順位を、当事者自身が示せるかが問われる。
自然の情報は、誰のものなのだろう
科学の発展には、遺伝情報を国境を越えて共有できる環境が欠かせない。一方、その情報の出発点となる生物や生態系を守る費用は、現地の政府や地域の人々が負担してきた。情報を無料で使えることと、そこから生まれた利益を公平に分けることは、両立できるはずだ。
アルメニアのCOP17は10月30日まで続く。各国は拠出の仕組みや資金の配分について議論を進めているが、10月23日時点で最終的な結論が出たわけではない。これから見るべきなのは、基金の総額だけではない。企業が参加しやすく、参加しない企業が得をしにくいルールになったか。そして、森や海を守る人たち自身が、資金の使い道を決められるか。自然から得た知識が、自然を守る力へ戻っていくかが問われている。
参考・出典
- The Guardian — Big pharma accused of free-riding on nature as global fund attracts just $7,000
- UN Multi-Partner Trust Fund Office — The Cali Fund
- The Cali Fund — October 2026 Newsletter
- Convention on Biological Diversity — Cali Fund launch
- The Cali Fund — Frequently Asked Questions
- Convention on Biological Diversity — COP17 Yerevan meeting
- Zero Carbon Analytics — The Cali Fund aims to mobilise biodiversity finance
- AFP via Dawn — Landmark biodiversity fund with $7,085 raised
- The Cali Fund — Indigenous peoples and local communities
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